「歴史」の嘘に、ご注意! | 金沢・新おもてなし考

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日本人は本当の日本や日本人の良さを理解しているでしょうか?

金沢の街で日本文化を外国の人にちゃんと理解してもらうため、話し合いましょう!

第26回国際ポットラックサロン「新おもてなし考」 2007年11月7日(晴れ)

「歴史余談 金沢の町と城」 ―そこに住んでいた人々―

語り手 濱岡 伸也 さん 石川県立歴史博物館


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江戸時代の金沢―全国に誇ったのは、なんと「俳諧」だった江戸期の金沢を代表するものといえば、つい能や加賀友禅、漆器などを思い浮かべるのですが、実は日本中に名高かったのは「俳諧」だったそうです。



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写真 寺町の願念寺

松尾芭蕉が旅の途中に面会を熱望しながら直前に失った句友・小杉一笑の死を悼む句碑があります

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写真 句碑

江戸時代初期には農村にも貨幣経済がいきわたり、土地に縛られていたと思っていた人々も手続きさえ踏めば長期の不在も可能だったそうです。



 歴史についての、さまざまな思い込みが、芭蕉は幕府のスパイなどという説を生み出したのかもしれませんね。近頃、地元紙がさかんに書きたてている「金沢は城下町」というのも?マークがつくようです。


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金沢は城下町ではない!?必要なかったランドマーク

城下町の共通点のひとつは、大名行列が通過すること。どこからでも見える櫓や天守閣はランドマークでした。
「何様のお城下だぞ、心して通過せよ」という意味合いのものだったそうです。
尾張城や駿府城を思い浮かべてください。
金沢を通過する大名行列は大聖寺藩のみ。本藩に対してさほど遠慮もないし、加賀藩も気を使う必要が無かったのでランドマークは必要なかった。

天守閣の復元をという声が地元紙にも再々登場しますが、これは戦国の遺構というべきもので、時代は二の丸御殿に重きを置いたのでした。



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人口の7割はサムライたちー兼業農家が下支えいま1つは町の中に町人が少なかったことです。

人口の7割弱が武士とその関係者、町人は3割強しかいなかったことでした。
江戸との大きな違いでした。

それで町が成り立っていたかというと、城から1キロ四方の円の外から、お百姓さんたちが通いで奉公していたのだそうです。

つまり兼業農家は今に始まったことではなかったのでした。
町の中心部に、旅館・旅籠が殆ど無かったことは城下町とはいえない証拠のひとつだそうです。
おとなり、津幡の存在理由も浮かんできますね。



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「みんなが知っている江戸時代の金沢」は嘘

金沢検定に出題されたかどうかは知りませんが、市民が信じていることの多くが明治以降の、武家が姿を消して人口が激減した金沢を、かくありたいと思う気持ちから作られた説の数々だったようです。
(利家とそろばん、まつは良妻賢母だった、利長の器量、利常と珠姫、寺町は出城、幕府の隙を窺う加賀藩、鼻毛の利常、将軍家へ献上した氷、雑穀しか食べられなかった百姓etc)



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江戸時代全般についても落語「刻そば」や「長屋の花見」から時刻や物価の話など伺いました。
江戸時代の早い時期に上方では商業と文化が大いに栄えて、職人達が仕事帰りには「うどん」の一杯も買い食いするゆとりがあったことを知りました。

なかでも現代の民法は江戸時代の(ことに大坂の商家)慣習法がもとになっている事実からは、現代よりも成熟した社会であったことが伺えました。

教科書で習った江戸時代は士農工商でがんじがらめ、どちらかといえば武家による政治面にだけ光を当てていたように思えます。

歴史の常識とウソ、資料も一方向から見るのではなく色んな角度から見てほしい、というのが濱岡さんの結論でした。

歴史を学ぶに予断は禁物ということでしょうか



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写真 黒島天領祭り


余談その1

きょうの語り手、濱岡さんは3月25日午前9時42分マグニチュード6.5の地震が襲った能登、門前町黒島地区のご出身です。

震源地道下(とうげ)の目と鼻の先、黒島地区は北前船の寄港地として栄え、高度経済成長期まで多くの捕鯨船員や大型タンカーの船員を輩出した土地柄です。

ご実家は、冠婚葬祭時には襖を取り払うと6つの部屋が1つの部屋になったそうです。



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そんな家が多い地区には納屋や土蔵に特別の日のご膳などが仕舞われていました。

倒壊した母屋から被災を免れた家財を、納屋や土蔵に運び込むとそれらの諸道具を仕舞い切れず、やむなく手放しました。
マスコミからは「文化財を売った」、あるいは「便乗ゴミを出した」と叩かれたそうです。
北前船の寄港地である土地の人々の感覚では、誰かが持っていてくれれば、この物は無くならない、という思いが強くあるのです。

またシールを貼って集積所へ出しても道路は寸断、回収車はなかなか来ませんでした。

被害の程度は阪神淡路の震災よりも大きいのに、その実態が伝わらない悔しさ、行政も手立てがなく全てが後手後手に回りと、もどかしさばかりが先に立つという濱岡さんに、この地震体験は25年勤めた歴史博物館での物の見方、考え方をがらっと変えさせたそうです。



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余談その2

以前、このサロンに登場してくださった松田章一さんの戯曲「芭蕉落枝舎日記」にも、野沢凡兆という金沢出身の人物が芭蕉の手足として登場しております。 

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第24回の語り手・富山市の加藤さんも交えてのサロンは、的を射た質問の数々にたいへん盛り上がりました。

「歴史がこんなに面白いものだったなんて」とは参加者がこもごも口にした言葉でした。

機会があれば「富山はもっと面白いです」とおっしゃる濱岡さんをもう一度サロンにお呼びしたいものです。