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金沢・新おもてなし考

日本人は本当の日本や日本人の良さを理解しているでしょうか?

金沢の街で日本文化を外国の人にちゃんと理解してもらうため、話し合いましょう!

第32回 国際ポットラックサロン「新おもてなし考」2008年7月2日(晴)    

 ―針と糸でつくろえば住みよい日本がとりもどせる?―

語り手:中村 浩子さん  裁縫士・ 寺子屋「つくろう会」主宰


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浴衣の胸元からレース、裾にはタイツが見えたりする当世きもの事情です。
でも、イザというときにやっぱり和服は華がありますね。


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写真 M家の婚礼風景より

「この道、四半世紀」とおっしゃる中村さんから、和裁にこめられた知恵や厳しかった修業のことなど伺いました。



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この3月に石川国際交流サロンで「古代裂まんだら」展 を開催しておられます。


□ 仕立てにこめられた様々なテクニックは知恵のかたまりかつては「洗い張り」が常識でしたから、直ぐほどけるように仕立てることが必須でした。またほどいた糸は再利用されました。

「張り板



「体型が変わっても着られるように鋏を入れる回数を少なく」は洋服との違いですね。

残り糸も5センチ以上あれば繕いに使えるそうで少々驚きました。


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写真 残り糸で作られた指貫(ゆびぬき)

これらは「お師匠さま」からの教えだそうです。

□ 繕い仕事こそが天職

あるお寺さんから頼まれた「袈裟」の修理がきっかけで繕い仕事の面白さに魅せられたそうです。

「平成の駆け込み寺・長幸寺」


仏門では、先師が身につけた衣を弟子が修行に使うことがよくあります。
ある高齢の住職さんは「明日が見えそうな」くらい古い師の衣を「運針」の技術だけでつくろって大切にしておられるそうです。

「針と糸」で先人の心を幾世代にもつなげていけるのが「繕い」なんですね。


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参加者一同「運針」のお稽古

近頃の古着ブームにも疑問が出ました。
かつての生活に根付いたリサイクル文化にくらべ、ヴィンテージ物を探すような風潮は文化とは言い難い?



□ 衣(ころも)はパワーストーン色や素材が身を守るほか、お祖母ちゃんが身にまとって頑張っていた物を、お母さんも着ることで頑張れる。 

2世代分の頑張りが娘にも届くと中村さん。 


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 92歳の祖母から孫娘へ 人形の着物

いまは幾世代もの蓄積が、どんどん無くなって来ているから心が弱くなり、さまざまな事件、現象が起きているのではないかと参加者一同。

□ 和裁の技を我が子に伝えたい中村さんですが、残念ながら大学生と高校生の息子さん二人は継ぐ気配はありません。
そこで提案なさるのが地域にクラブ活動のような塾をつくることです。

「つくろい」の心を取り戻して、忘れかけている「お裁縫文化」を復活させれば壊れかけた親子関係や、びっくりするような犯罪、殺伐とした人間関係が緩和されるのでは、と思いを語ってくださいました。 


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お話を伺いながら、そうそう、師匠は厳しくなくちゃと思いつつ、生前の姑の言葉が次々と思い出されました。

(文責 中島)
第31回 国際ポットラックサロン「新おもてなし考」

2008年6月4日(晴)




805-20 冥途の旅は紅葉タクシーで

―まちなか空洞化問題は老人問題?それとも外国人問題?―


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語り手:西 雄司 さん(北陸ミサワホーム)

―8軒に1軒※は空き家という町なかに、どうすれば人を呼び戻せるかが今日のテーマです。
※(全国平均)写真 

西さん◇ 入社3年目にして“夢多き設計マン”から営業マンに転身して23年。
「ちょっとした工夫で」人一倍の売り上げをものしてこられたそうです。

◇ 自分たちがお客のニーズに応え、また提案してきたことが、昨今の子どもたちをめぐる問題につながっているのではないかと考えておられます。(長者番付1位というゲーム機メーカー相談役さんに言わせたい!この言葉)



◇ 子どもに与えた個室のかわりに消えた仏間や床の間は、父親の存在感を薄め、代々伝わってきた家の文化や歴史が継承されないのでは、と。う~ん頷けますね。


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写真 金沢市まちなか区域図

◇ 金沢市が進める「まちなか定住促進事業」はスタート以来20年を経過しています。


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◇ 伝統的な景観を壊している駐車場。

これを一ヶ所に集めたり、あらたに家を建てる試みも相続権などが邪魔をしているようです。

◇ 空洞化を埋める最大のパワーは外国人留学生!

― 市内の2つの私大には、凄まじい勢いで中国からの私費留学生が増えています。
バイト先と大学との中間地の多くのアパートが彼らで占められています。

― 怖がって日本人が逃げ出したアパートを大学が丸ごと借り上げています。


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◇ 中華街ができる前に、彼らを日本人化させることは可能か?

―彼らに祭りの神輿を担がせるだけでなく、注連縄張りもさせるとかね。

―彼らに、郷に入っては郷に従え式を教える口うるさいオジサン、オバサンが必要ですね。

―それは中国人を知らないやり方で、然るべき中国人に言わせるほうが効く。


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◇ 猥雑さこそが若者をよびこむと知るべし

― 県行政のコンセンサスは「イベント」と「バリアフリー」です。
整備しすぎた街は年寄りと、いわゆる弱者ばかりに(?)


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写真 四高記念館のエレーベータ―

旧県庁跡地は大型スーパーか、サーカス小屋と屋台を。

― 金沢市民のプライドが許しますかね?

◇ 空洞化の現状はさまざまです。ひとり暮らしの老人に、かつてのような商店はなく、100円バスも近くを通らないとか・・・空洞化問題は老人問題

― まちなかは「タクシードライバーもよれよれ。
みんなで紅葉タクシーに乗り合わせてドボンと行こう」と明るい提案がありました。


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世の中は、ニーズに応えるさまざまな知恵を絞ることで続いてきました。期待しましょう。 

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西さんが石川国際交流サロンを訪れるようになったきっかけは、この建物の床の間の美しさ、多様さに惹かれてのことだそうです。(文責:中島)
第30回 国際ポットラックサロン「新おもてなし考」  


2008年4月2日(水)「越中の旅」    

今回は30回記念として移動サロン(!)を実施しました。

第24回「越中さ」考にご登場の加藤さんご推薦コースを行く「越中の旅」です。

写真DSC_0071

参加者のひとり、高岡生まれの詩人が「歩かなければ意味がない」という金屋町。
彼女の感性はこの辺りからも培われたのでしょうか・・・

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家々の雪の重みに耐える重厚な作りが好ましく思われました。
男性は家並みの観察に夢中でしたが、詩人は・・ご覧のとおりです。


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写真 築200年を越える元鋳物商の店で

最初から大幅なタイムオーバーです。
山門や仏殿等が国宝に指定された瑞龍寺ですが参加者の殆どが拝観済みとあって、こちらはパスしました。                   
http://www.zuiryuji.jp/

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写真 修学旅行以来?

加賀藩3代藩主利常公によって建立された本当の理由は、実子光高の若過ぎる死を悼むため、と学習済みの面々でした。

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八丁道の利長公の像総門からまっすぐに伸びる八丁道(参道)を突き当たると利長公の墓所です。

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写真 墓所入口、馬酔木の匂いが出迎え

皆の度肝を抜いたのは、大きな石塔群でした。

写真 Mさんの身長は180センチです。

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地上高は11M以上という墓所は戦国武将のものとしては全国一のものです。

「重文に指定されても不思議ではない」と盛り上がりました。

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エフェソス遺跡以来、つねに敬虔な祈りをささげるSさんに倣い、手を合わせました。

ゆるやかな坂道を登って鋳物の町を代表する高岡大仏さまを、おまいりしたのち、古城公園に到着しました。

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館員にすすめられるまま入った高岡市立博物館で、思いがけない展示に興奮する場面がありました。

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写真 市立博物館 

ひとつは高峰譲吉博士が高岡の生まれだということを初めて知った金沢市民のみなさまの驚き(博士は1歳で金沢に移住)

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写真 解説に見入る金沢市民

いまひとつは、日本の美術工芸品を欧米に広めた林 忠正という人物の存在でした。 

http://www.senmaike.net/color/html/ijin/7hayashi-tadamasa/1.html


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写真 林 忠正

金沢美大2人組の喜びようは、この冊子の表紙からもお分かりいただけるかと思います。

ウィーン万博(第2回万国博覧会1886年)に石川県の美術品などを出品してジャポニズムを巻き起こしたと解説にあります。

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写真 林 忠正の手になる絵入りパリ誌の表紙

ひそかに博物館再訪を誓ったのは紙博士のTさんです。
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写真 保存状態のよい引き札(広告チラシ)と新聞社発行の双六


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写真 コシノヒガンザクラでしょうか

高山右近がすべての縄張りをしたとされる高岡城跡は西洋の城館そのものです。

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「200日で完成させたなんて、ふつうは有り得ない規模ですよ!5年はかかる規模ですよ、素晴らしい!」と感嘆の声が上がりました。

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写真 水壕沿いに歩く一同 DSC0131

「人力」に勝る兼六園よりも親しみ深いこの公園はまさに高岡市民の財産です。
自然度の高さにもすっかり気を良くした一同でした。

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遅めの昼食は呉羽山公園のレストランでいただきました。
空腹で写真を撮るのを忘れてしまいましたが、春色満載のランチでした。

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目の前に拡がる猫又、剣岳、大汝峰と続く白い山々に歓声があがりました。
眼下は富山市街地“あの空襲のときは真っ赤だったそうよ”とは詩人のひとこと。

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 振り返ると立山開山の祖といわれる佐伯有頼像がありました。

石川国際交流サロンで個展を開かれたこともある楢原北悠さんの作品でした。

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写真 解説盤に見入る一同

近くには民俗民芸村や五百羅漢さんなど見どころがたくさんありましたがパスしてKさん宅へ急ぎました。
きょうのメイン会場です。       

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手荷物を置くにもためらうほど行き届いたお掃除に、ご亭主のもてなしの心を感じました。

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お正月用天神飾りを再現した床の間

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亭主の点てるお茶を一服。薮内流だそうです

季節のお菓子が心づかいの銘々皿にのせられて。

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注:江戸後期九谷若杉窯と越中八尾丸山焼
会話が弾みます 

円卓は、こういう日のためにと求められたそうです。
“おもしろすぎ”と誰かのひとこと。
時間を忘れて会話を楽しみました。

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寺本拳嶺さんの“さくら”を鑑賞しました。

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ショパンを2曲。アンコールにこたえて弾いてくださったのはベートーベンの“月光”でした。

「これってしあわせ・・今とても幸せです」と参加者のひとりから言葉がもれました。
全員がおなじ心地とみえ、一様に頷いていました。

惜しみなくも、さり気ないおもてなしに「遊びをせんとや生まれけむ」を体現している(?)一同、こころゆくまで越中を味わった移動サロンでした。

「一度はおいで」ではなく「一度、来られ」かな(笑)

第29回 国際ポットラックサロン 2008年3月5日(雪) 

語り手 高村 武さん 


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石川県にゆかりの深い「勧進帳」を題材に、歌舞伎の魅力を語っていただきました。



初代中村歌右衛門、そして文化文政期に名優とうたわれた3代目の父親は金沢の出、屋号は「加賀屋」です。



卯辰山にある真成寺が菩提寺、いまも襲名の際には必ず墓参に来られます。



その寺は鬼子母神さんと呼んだ高村さんの遊び場のひとつでした

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一幕見の天井桟敷が定席とおっしゃる高村さんは、弁慶が六方を踏みながら花道をさがるのを、1階まで駆け下りて観たそうです。



ご披露くださったお宝は、戦前の7代目幸四郎の弁慶・12代目仁左衛門の義経・15代目羽左衛門の富樫での舞台録音レコードでした。

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これも愛蔵の手回し蓄音機からは、2つ打ちの柝の音に導かれて笛の音が響きます。

幕開きです。



「かやうに候者ハ加賀の国の住人富樫の佐エ門にて候」と謡曲「安宅」に題材をとった台詞が朗々と響きます。

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 能「安宅」謡本

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地下鉄東銀座で降り、地上に出れば、そこは江戸(旧木挽町)、とすっかりのめりこんだ歌舞伎との出会いは、小松市の「お旅まつり」に上演される「子ども歌舞伎」のポスターや資料を商社員として扱った事でした。

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市川團十郎丈から直接指導を受けることもある、この「子ども歌舞伎」は、衣装、振り付けから全てが本格的なものです。

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http://www.city.komatsu.lg.jp/



衣装は金沢の梅若衣装店が担当しています。

かつて地元の興行主によって上演された舞台の数々がいまに生きているとのことでした。

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地元の金沢大学付属高校では、学生たち自身の手になる歌舞伎が、毎年の開校記念日に上演され、金沢の風物詩ともなっています。

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「彼らは飲み込みが早く体格も歌舞伎向き」で、「そりゃあ、豪華絢爛、見応えがありますよ」とのことです。

舞台はもちろん「講堂」です。

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紙を専門に扱ってこられたご経験から、大正時代の興行の案内や、現歌舞伎座の看板絵を描く鳥居派による役者絵などのお宝も拝見しました。

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現在の歌舞伎の隆盛は、世界遺産の登録。

坂田藤十郎の中国公演、市川團・海老のパリ・オペラ座初演、平成中村座のNY公演など日本文化が海外で高い評価を受けていることに原因があるとのことです。 



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◇この隆盛を支えるものと伝統を受け継ぐこと等に話が弾みました。


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■歌舞伎の世界と相撲の共通点―門閥がある。

グループで興行する

―襲名制度(四股名、名跡、追贈など)

―どちらも海外公演している(問題もあるー柔道の例)


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■ものづくりとの共通項

―老舗企業の多さは世界一

―型を大切にする(本業に忠実)

―島国だから他国からの蹂躙をまぬがれて比較的つながってきた

―常に新しい分野に挑んでいるから続いてきた。歌舞伎しかり、ものづくり然り

―演出家・菅原卓の演出例が話題にのぼりました(中村勘三郎の一人芝居・枠を超えたものを模索していた時期があった)



■15歳の壁

―小さいときからやってきて、ものにならないから諦めなさい、と言える年齢が15歳。転向できる。

―いま工芸の世界は大変なことになっている。

―大学で始めて、30歳の声を聞いて無理だとわかったとき、どうすれば?

―徒弟制度が支えた技術

―我が国の教育制度に問題がある

―伝統は生れる前から馴染んでいる世界



■西洋の演劇に及ぼす歌舞伎の伝統

―かつては少年が女性を演じていたこともある西洋演劇ではなぜ途絶えたのか

―奈落や幕の活用など、歌舞伎は洗練されている

―いま西洋では歌舞伎の手法をさまざまに採り入れている 

万葉集のある国は、日本だけという発言がありました。 

     

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「紙博士」と呼ばれている高村さんの「歌舞伎」によせる情熱にひたすら感服のひとときでした。

実は歌舞伎とのつながりは、小学校3年の頃。

与えられた宿題「郷土の歴史」に選んだのが「義経」でした。

その頃のお住まいは、義経主従が立ち寄ったといわれる「鳴和の滝」の近くでした。



(文責:中島)




第28回 国際ポットラックサロン 2008年2月6日

マエストロ・作務衣・テラモトのメキシコ紀行 


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語り手 寺本 拳嶺 さん 薩摩琵琶演奏家

◇ いざ Monterrey(モンテレー) へ

地獄へ行くよりも恐ろしい飛行機、海外旅行なんてとてもとても、という寺本さんが機上の人となって、初めての海外旅行に発ったのは昨年11月末のことでした。

薩摩琵琶の演奏をとおして子ども達にも地域の歴史や邦楽の楽しみなど伝える活動をしておられる寺本さんのもとに、ひとつのオファーがありました。

アメリカとの国境に近いメキシコ、モンテレー市から、市が主催する教育プログラムに日本代表として招聘されたのです。

出し物はスペイン語訳「竹取物語」。東京在住のグアテマラ人、アベルさんがスペイン語に訳してみずから語り手に。

I.I.サロンでもお馴染みの、天籟舎・戸水胤山さんの尺八と、寺本んの琵琶が雰囲気を盛り上げました。


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◇ メキシコの高い文化レベルに脱帽

広大な敷地に建てられた幾つものパビリオンには、大型バスでやって来た小学生が連日入れ替わり立ち代り「課外授業」を受けていました。


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子どもたちに海外の文化に触れさせるというこのプログラムが、コロンブス以来の苛烈な歴史のなかから生れたもの、あるいは失われずに残った、年月に淘汰された文化の本質を身につけたモンテレーの人々の、高い文化、教育意識、レベルによって実行されていたことに寺本さんは衝撃を受けました。

■ 子どもたちの反応は10分もしないうちに飽きてモゾモゾして寝転がるのは低学年の子ども達だけ。

 
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アドリブを挟みながら舞台せましと演じるアベルさん寺本さんの「思いっきり高い、デカイ声」は、びっくりして目を覚まさせるに十分でした。


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かぐや姫と帝との和歌のやりとりを演じる寺本さん初めの戸惑いも、回を重ねるごとに消えて、子ども達の心を引きつけ手ごたえは確かなものでした。

■ 市民の反応は最後の一般向け演奏に、市民の反応は総体的に飾りっけがなくて、良い悪いということに関して、率直な反応を示して貰えました。


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「それを、新聞でちらっと書かして貰ったのがこれ」という新聞

「壇ノ浦」を語り部の人たちの中で、尺八とあわせて演奏しましたが「それは、それは、反応は直裁でしたよ」とのこと。

「感じ取るものって言うのは、種族が違っても同じように、ちゃんと感じて貰えるんだなっていうことを分かった」ということが初めての海外旅行で、感じさせて貰ったことだそうです。 
 
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以下は、限られた日程の中でのわずかな見聞ですが、という但し書きつきの話です。 

■ 寺本さんのメキシコ観メキシコ第3の都市Monterrey市街地は、アステカやインディオの昔からの風景が残り、アメリカナイズされていない街と映りました。


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「土着・土俗」を感じさせる風景日本では、建物も人も顔も服装も、アメリカから切り取った、そのままの物がどこにもありますが・・・

■ 「恥ずかしながら、メキシコは日本よりはるかに文化の低いところと思って行ったわけや。
ところが、なんの、なんの。
逆にね、なめられるくらいにレベルが違いすぎ」

「現に彼らがやっている事を見たら、これはもう凄いことやと思いますモン」

「不自由な、条件の悪いなかで、本質が全部現れるということ」

今どきの言葉で言えば品性は、文化的なものに対する意識にすべて収斂されるということでしょうか。

アステカやインカの文明というものに対して非常に、的確に保存・展示しながら外国との交流をしているというところが、まったく無理がなく好印象を抱きました。


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写真は去年9月に北陸放送ラジオに出演されたときのもの
メキシコでの演奏を予告されていたそうです。

■ 混血ということ

スペインは、ヒットラーに匹敵するようなむごいことをしましたが、長年のうちに混血して今あるような人たちが存在するわけです。

寺本さんたちの世話をしてくださった男性の、そのまたチーフのルーツは、アフリカから連れてこられた人たちにありました。

その方は、現代アートの最先端みたいなこともしていて、自分のルーツのことを、ちゃんと整理していて、それを自分も演じていたりするという、申し分のないような教養も内に持って文化活動をして、学生たちにも教えていました。

「いや本当にね、非常に謙虚だけども学識豊かで、知性の豊かさがね、もうはっきり分かるような方」でした。

「ふるいつきたくなるほど美しい女性たち」について接木に例えた興味深い考察がありましたが詳細は参加者の間だけに留めておきます。   


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 伝えたい自国の歴史・文化 

~スペイン人がコロンブス以来、アメリカ大陸へ来てどんなことをしたかは、宣教師による本国への報告から、ナチが600万人殺したことの比ではなく、恐らくは億の単位だろうという話から、話題は源平の戦いに及びました。

■ 倶利伽羅の古戦場はナショナルブランド

平家滅亡につながる一ノ谷の合戦や、壇ノ浦の戦いほどに人口に膾炙していないのが「倶利伽羅の合戦」です。

寺本さんは、峠のある津幡町に隣接する金沢市にお住まいです。

日頃、平家物語を弾き語ることの多い寺本さんは、「倶利伽羅の古戦場」は「関が原」に匹敵するナショナルブランドだとおっしゃいます。


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■ 「倶利伽羅峠の歌」を広めたい 

峠の釈迦堂に近い刈安小学校には、運動会の騎馬合戦で、必ず歌うという曲があります。

  ◆倶利伽羅峠の歌◆ (クリックするとHPへ飛びます)

源氏方の総大将、木曾義仲の必勝祈願。対する平家の維盛軍7万騎を得て意気さかん。
しかし火牛の計に驚き、あわてふためく平家方。次々と馬もろとも地獄谷に墜落して死んでいく様子など活写され、最後は諸行無常のことばで終る、七五調の歌詞が素晴らしい曲です。

細々と歌い継がれてきたその和歌が刻まれた石碑を、偶然に寺本さんが倶利伽羅を訪れた際に発見して、それに旋律をつけ、琵琶の曲として作品に仕上げました。


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■ 金沢市内のある中学校でこの曲を演奏したおりに倶利伽羅の古戦場へ行ったことがあるかを問うたところ、僅かに100人中3人が手を挙げただけでした。

■ 寺本さんには、自分たちの歴史や、現場がどうしてきたということを何にも知らない、という日本の現状、とりわけ子ども達の現状が気がかりです。

教育で、家庭で、共同体の中でやることであるかもしれないけれど、全てのことにおいて、お粗末な状況は沈没船に乗っている気分・・・


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◇ 後世への伝え方-寺本さんの提案

■ 「文化果つるような家」に生れて、百人一首のひとつも憶えずじまいで育ちましたので、孫には、百人一首を聞かせにゃいかんと、かあちゃんと話しとるんですワ」とおっしゃる寺本さんです。

「親が少しでも、話をして一度ぐらいは連れて行くことがあってもいいんじゃないか」というものは、それこそ全国あちこちにありますから伝えていきたいですね。

■ 地理的な条件が悪い土地ならば「過疎化したものを売る」という発想にして、たとえば京都の一角を平安京にしてしまって、車もなにも入れない、極端な話、そんな感じの切り替えをする。

能登なども(立派な空港と幹線道路がありますが)誰もが入りにくい、特別の場所やということを売り物にしていけばいい。

こんな処が、今の日本にあるのか、というぐらい酷い状況のところを演出すれば、逆に山ほど人は来る。
そうですよね。「間垣」の奥で,とんでもなくハイカラな暮らしをしていればいいんですからね

◆奥能登の間垣◆ ((クリックするとHPへ飛びます)

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◇ 余談

■「倶利伽羅峠の歌」を、たまたま聴かせていただいたサロンの参会者のひとりが、その作品の素晴らしさに、演奏のお世話を何度かさせて頂きました。

そして、せめてあの地域のひと達に、きちんと受け継いで頂いて、みんなが認識すべきだと、とうとう津幡町の町長さんのところへ乗り込んでいきました。

■ 毎年五月のゴールデンウィークには、小矢部市と津幡町から、それぞれの町長が、鎧兜を着て峠を登り、上の広場で綱引きをするというイベントがあります。

「倶利伽羅峠の歌」が両市町から全国に拡がっていくことを期待しております。(文責:中島)